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■ はじまり〜神仏と水のゆかり深き阿蘇信仰〜
 阿蘇山西巌殿寺のおこりは、神亀3年(726)にさかのぼります。当時、阿蘇信仰の中心は「阿蘇のお池」と呼ばれる噴火口の湯溜まりでした。そもそも日本では、山は死者の世界であり同時に豊かな実りを生む水の源として信仰の対象とされていました。そのはかりしれぬ神秘を人々は畏(おそ)れ崇拝していましたし、その一方では、山へ入り、修行を積み、神霊の意志を伝えようとする山岳修行者もいました。
 そのような意味で、火を噴く山・阿蘇も当時の朝廷から関心を寄せられておりました。そこで、神の住む阿蘇の湯溜まりのもとで修行せんと、天竺から来朝していた最栄読師という僧侶が阿蘇山にやって来ます。読師は噴火口めざして山を登り、修行に励みました。ところが、火口から中を覗き込んでみると、そこには目を覆うような地獄の世界が広がっているではありませんか。鬼に責められ、またはお互いを殴り合いその肉を食らいつく亡者たち…。その光景に読師はとても心を痛め、悲しい気持ちで山を下りようとしました。
 そのときです。目の前に九つの頭を持つ大きな龍が天空をついて現れ、「火口の中を見てみなさい」と読師に告げました。その龍は阿蘇神社の祭神、健磐龍命(たけいわたつのみこと)の変化した姿でした。阿蘇明神の言を受け、読師がおそるおそる火口の中を覗きこむと、そこには先ほどの亡者たちをかばい鬼に打たれ、争う亡者たちの仲裁に入る慈愛に満ちた十一面観世音菩薩の姿があったのです。あまりに尊いその姿に心打たれた読師は、登山途中見つけた霊木に心を込めて十一面観世音菩薩お姿を一心不乱に彫りました。そして火口の西の洞窟(巌殿)に安置してご本尊として祀り、毎日法華経を読んで修行に励んだのです。人々は、そこを西の巌殿の寺と呼び、崇めました。これが、西巌殿寺の寺号の由来です。
■ 阿蘇信仰の隆盛〜人つどい坊中うまれる〜
 その後、最栄読師の周りには自然と修行者が集まるようになっていました。阿蘇山上の西の巌殿(いわどの)を中心に、衆徒と呼ばれる天台宗の僧、行者と呼ばれる真言宗系の修験者たちが坊舎(寺院)をつくり、それに属する山伏たちが庵(支坊)を結びました。その数たるや実に「三十六坊五十二庵」と呼称されるほどにのぼり、阿蘇坊中の隆盛を指す時には必ず言われてきたものでした。
 ところで、ここで言う「坊」とは僧侶自身と彼らの居住する坊舎をいいます。つまり、これらが集まった場所であることから「坊中」という地名が生まれました。江戸時代には、山上の本堂跡界隈を「古坊中」、現在の本堂界隈を「麓坊中」と呼び分けるようになります。
 僧侶たちは祈祷などで田畑の寄進を受け、段々と実力を高めていきました。阿蘇では、昔から「オンダケサンマイリ」という火口詣でが盛んに行われていました。山伏たちはその参詣者の道案内役として活躍しました。行動の自由がきく山伏は刷り物(お札)などの配布を通して、檀那と呼ばれる信者を獲得していったのです。山伏は実力を持っていたらしく、熊本の渡鹿橋の再興を行いました。この橋は、文明10年(1478)に洪水により、決壊したものを大工に加勢して再興したのです。また、阿蘇の中宮の造営でも衆徒、行者ができなかったものを代わって山伏が行っています。この件で、衆徒と行者は阿蘇大宮司から叱責を受けています。
 山での修行を積む彼らは、神仏との架け橋を渡してくれる存在として人々に感謝と信頼を寄せられ、信仰の輪はどんどん広がっていきます。阿蘇の山々に流れる僧侶たちの読経の声、山伏たちの吹き鳴らすほら貝の響き…。その光景たるや、まさに壮観の一言。たくましいエネルギーに包まれて、阿蘇は西日本有数の山岳仏教の拠点となっていったのです。
■ 戦乱の悲劇〜阿蘇山上、焼き払われる〜
 ところが、天正年間(1573〜92)に入ると、豊後の大友氏と薩摩の島津氏の確執が激しくなり、その争いの余波は阿蘇山一帯にも及んできました。阿蘇神社の大宮司であり阿蘇地方を治める戦国武将でもあった阿蘇氏は、大友氏の支配下に入っていたことから島津軍の攻撃に遭ってしまいます。西巌殿寺のある古坊中も阿蘇氏の庇護下にあったことから、なんと山上の寺院群をすべて焼き払われたと伝えられています。僧侶や山伏たちは行き場を失い、山を下り、やむなく四散していきました。かつての隆盛は阿蘇山上のどこにも名残りなく、坊中はどんどん衰えさびれていくという憂き目にあってしまったのです。後に度重なる噴火による火山灰などで坊跡は地中の中へと消えていきました。露出していた石塔や土塁の後も戦後の草地改良によって、ほとんどが失われました。
 仏教の教えの中に、「諸行無常」というものがあります。永久に変わらぬものは世の中に一つとしてないのです。しかし戦乱に巻き込まれるような形で厚い信仰心を持つ人々の依り所が奪われてしまうのは、残念と言うより他はありませんでした。
 ただ、この時落ちのびた長善坊はその後も神仏への奉仕を続けることができました。現在は長善坊の建物はありませんが、西巌殿寺本堂から徒歩2分ほどの場所に大きなイチョウの木が残っています。このイチョウの木は、加藤清正公御手植えのイチョウ、もしくは駒繋ぎのイチョウを呼ばれています。
■ 再興〜新しい坊中が生まれるとき〜
 時は過ぎ、豊臣秀吉の天下統一により、肥後の国には加藤清正が入ってきました。実は、これより以前朝鮮出兵の際、清正が苦戦を強いられていた折、おびただしい矢が飛んできて清正軍を援護し、そのため命拾いしたことがありました。不思議に思った清正が矢を拾ってみるとそこには「阿蘇山長善坊」の文字が。藩主になるや、その恩を伝えようと長善坊を探し出しました。その時、長善坊は思い切って三十六坊五十二庵の再興を願い出ます。その願いは清正から豊臣秀吉に届けられ、無事に許しを得ることができました。慶長五年(1600年)、清正は早速、各地に散在していた僧侶たちを呼び集め、三十六坊五十二庵の再興を許します。この時、麓の黒川村(現在の阿蘇市黒川)に「三十六坊五十二庵」の再興がなったのです。そして、ここを「麓坊中」、山上を「古坊中」と呼び分けるようにしました。今でも坊中の地名が残っており、昭和の中頃までは阿蘇駅は坊中駅と呼ばれていました。
 改めて山上には本堂や諸堂舎が建てられました。そして、かつての古坊中がそうであったように、新しい坊中にも数多くの坊や庵、様々な堂舎が甍(いらか)を競うのでした。一時は荒れすさんだ阿蘇坊中に取り戻された繁栄。ほどなくして肥後の藩主は加藤家から細川家に代わりますが、それからも変わらず代々の崇敬がありました。こうして再び阿蘇山の信仰が継続されることになったのです。
 細川藩より衆徒、行者合わせて300石ほどの寺禄を寄進という形で拝領していました。また、衆徒、行者より一名ずつが年行事としてその事務を行いました。年行事は、一年毎の輪番制です。年行事による届出などの書類など様々な古文書が西巌殿寺には残っています。特筆すべきは、学頭日誌といわれる学頭坊の住職による日記です。これは、江戸時代を通して綴られ、西巌殿寺についてだけではなく、その当時の世相や出来事などを今に伝えています。
■ 明治維新の憂鬱〜文明開化がもたらした二度目の窮地〜
 明治時代になり、日本には文明開化という大きな変化の波がやってきました。この明治維新で、新政府による神仏分離政策が行われます。そもそも阿蘇山の信仰は、健磐龍命と十一面観世音菩薩の結びつきにより生まれた神仏習合の形態だったので大打撃を受けました。また、幕藩体制から明治政府へと政治の形が変化するのに伴い、神道国教化が着々と進められます。これは、決して仏教の排斥を意図した政策ではなかったと言われていますが、実際には全国で廃仏毀釈の動きも高まり、あちらこちらで寺や仏像が壊されていきました。続いて修験道禁止令も発令され、僧侶や山伏をはじめ一般民衆の間にも大混乱を巻き起こしたのです。
 また、廃藩置県により、藩が廃止され、県が設置されるとそれまで藩からの寺禄で成り立っていた寺院は運営がままならなくなり、明治4年、坊中にあった三十六坊五十二庵も寺領返還によりほとんどが廃寺となり、旧学頭坊を西巌殿寺として存続することとなりました。
 麓に再興され、栄華を誇った三十六坊五十二庵の僧侶たちは僧籍を離れ、農民や神官・官吏へと生きる道を変えてゆきました。以降、麓坊中での宗教活動は著しく衰退し、神仏の守るありがたき土地もその性格を大きく変えてしまいました。
■ 復興、そして今〜有志がつないだ信仰の糸〜
 そんな最中、時流をしのぎ地道に西巌殿寺を守り続ける人はいました。しかし、このままでは、西巌殿寺までも消滅してしまうと危惧したかつての坊の人々が中心となり、西巌殿寺存続に心を砕いたのです。
 明治4年、有志たちは山上にあった本堂を麓に移し、住職のいなくなった坊の仏像を学頭坊に集め、学頭坊を西巌殿寺としました。さらに明治22年には、麓坊中関係者、有志の尽力により、「阿蘇山西巌殿寺奥の院」が建立され、ありがたくも現在の姿に至っています。惜しくも平成13年に不審火により麓に下ろした本堂は全焼し、現在は礎石のみが残っています。
 こうして歴史をさかのぼれば、西巌殿寺の歴史は隆盛と没落の歴史の繰り返しでした。しかしどのような時代の波にのまれても、現在に至るまで信仰が絶えなかった所以は、ひとえに阿蘇噴火口のそこにふつふつと沸きみなぎる“湯だまり”のもつ霊的な力と人々の信仰の力によるものです。神秘の水に宿る人智を超えた龍の神と、私たちに優しく慈しむ心を教えてくださる十一面観世音菩薩の姿は、これからも絶えることなく続いていくことでしょう。



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